歴史学が好きな審神者の戯言

歴史研究が好きなオタクです

刀剣乱舞における博多湾回想に関する一考察

※以前、2018年の同人誌即売会イベントにおいて無料頒布しておりました考察のWEB再録です。頒布したものに加筆修正しております。

 

 

 

はじめに

 

 刀剣乱舞における回想其の十九、『博多の話』をご存じだろうか。日本号と博多藤四郎の二振を、時代「武家の記憶」地域「博多湾」通称5-2と呼ばれるステージに出陣させることで発生する回想である。この回想は、たった三つの会話のみで構成されている大変シンプルな回想であり、印象に残っていない審神者も多いことと思う。しかし、その内容には、史実厨・考察厨としては大変なツッコミどころ満載であり、ネット上で一部の審神者たちにより、ささやかに話題になることも時折ある。筆者も一部の審神者たちの例に漏れず、この回想の解釈という底なし沼から這い上がることができていない。この度は、私が一年かけて手すきの時間に考えてきた、この博多湾回想の解釈を纏めることを試みた。

 勿論、刀剣乱舞という作品は周知の通り完全な創作ものであるということをわきまえたうえで考察をおこなっている。筆者は、博多湾回想が間違っている、などと否定するつもりは全くない。それどころか、この回想をこよなく愛しているがゆえの考察であることを、どうかご理解頂きたい。また、筆者は生まれも育ちも生粋の東京都民であり、福岡の土地勘については知識としてしか持っていないことをお断りしておく。

 筆者は趣味で歴史を研究している者です。ご了承の上お読みください。

 

 

 

一、 回想其の十九「博多の話」

 

 まず、本題に入る前に、回想『博多の話』を引用させていただく。

 

 博多藤四郎「時代が変わっても、博多の海は変わらんけんねぇ」

 日本号  「もっとも、変わらないのは地形くらいかもしれないがな」

 博多藤四郎「違いない。人の暮らしは変わっていくもんやけん」

 

 以上である。第一印象として、短いということがご理解いただけただろうか。おそらく現在ある回想の中でもトップレベルに短いと思う。この短い会話中には問題がたくさん挙げられる。細かい点は、後程取り上げることとして、まず、現在の博多湾岸のほとんどが埋め立て地であることを指摘したい。この点をふまえると、博多藤四郎の「博多の海は変わらん」日本号の「変わらないのは地形くらい」というワードに、まず疑問が浮かぶだろう。海岸線が大幅に変わっているのである。具体例を挙げると、現在日本号へし切長谷部が所蔵されている福岡市博物館が建っている百道浜と呼ばれる地域は、二十世紀に行われた万博にあわせて誕生したところである。

 

f:id:ms-utaware:20200614162321p:plain

国土地理院 空中写真閲覧サービスより(筆者による書きこみ有)

https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

 

この図は、2007年の空中写真と、1939年の空中写真を大体同じように横に並べたものだ。写真中に加筆した、二股に分かれている線が道、左上から左下へ引いた一本の線が川だ。両方ともに、比べやすいように、左右全く同じ場所に同じように線をひいている。2007年写真中央左上部の緑円部分が、現在の福岡市博物館だ。この場所は1939年写真では海になっていることがわかり、埋め立て地となっている箇所が広いことが一目瞭然である。

 このように、現在福岡湾岸は多くの埋め立て地でできており、直近一世紀の間でも大きな変化があることがわかったと思う。そのため、福岡のこの土地事情を知っている人がこの回想を見た場合、すごく変わってるじゃん!という印象を受けるのだ。

 

まず、回想で二人は、変わるもの、と変わらないもの、について言及しているわけだが、

変わるもの  =時代・人の暮らし

変わらないもの=博多の海・地形

 と表現している。この二枠の区別をどのようにつけているのか。筆者はこの点に着目をし、日本号と博多藤四郎は、何をもって「変わった」「変わっていない」という表現を行い、博多の街をどう見ているのか。どのような印象を持っているのか。どのような心境で会話をしているのか。考察をおこなう。

 

 

 

 

二、 変わらないもの ――「福岡」と「博多」

 

 

 回想を考える出発点として必ず踏まえたいポイントは、「福岡」「博多」地名の把握にあると思う。

 福岡市といえば、日本を代表する地方都市であり日本でもトップクラスの人口を擁する市である。そのような大きな街である福岡だが、新幹線の停車駅の名前は「博多」だ。では福岡という駅名があるのかというと、西鉄福岡があげられるが、一般的に天神と称されるのが普通であり、ここを福岡駅だと把握している人は少ないのではないだろうか。そのうえ、博多料理・博多織などの言葉が有名であり、東京都民などからすれば、福岡なのか博多なのか正直よくわからない印象を抱いている人も多いことと思う。

 「博多」と指すのは、博多駅を南端として、東は聖福寺のラインまで、西は中洲の手前、北は海岸線までというエリア。「福岡」は、天神駅以西、ちょうど福岡市博物館最寄り駅の西新あたりまでの城下町エリアであると、ここでは捉えることとする。 

f:id:ms-utaware:20200614171724p:plain

地理院地図より

エリアのかきこみはおおざっぱな区分です 

 

 

 一見、ひとつの街にふたつの主要地名があるように見える理由に、この土地に関する歴史的背景があげられる。

 九州北部というと、古代から中国や朝鮮との貿易の関係で、日本の外交にとっては重要な拠点であった。このことは、吉野ケ里遺跡や板付遺跡など、中学高校の教科書で必ず取り上げられるような有名な遺跡が九州北部に数多くあることからもイメージが浮かびやすいであろう。例えば、鴻臚館と呼ばれる当時の迎賓館のようなものが、現在の福岡城址に建てられたことは、ご存知の方もいらっしゃることだろう。http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/61

 このように、福岡市の範囲は、古代から貿易に関する重要地点であり、その後、中世となっても博多は商人の町として発展していった。幕府から自治都市として大阪の堺と共に指定されるほどに栄えていたのだ。博多の商人、という言葉は、審神者の皆さんにとっては馴染みのある言葉であろうと思う。

 博多は、中世以降、商人の町として特別扱いを受けていた町であったのだが、戦国時代に入ると、その戦火が博多にまで及ぶようになる。永禄から天正年間(織田信長の時代)にかけて博多の町は戦に巻き込まれ、焼け野原になってしまっていたそうだ。そのような状態であった博多に、ちょうどその時期に九州征伐に来ていた豊臣秀吉が着目。天正十五年に、石田三成をはじめとした五奉行と呼ばれる家臣たち、そして黒田官兵衛に博多の復興を命じたのだ。五奉行は復興工事を担当し、黒田家はその家臣の久野四兵衛の立案による町割りが採用され、博多の町は復興された。その後秀吉によっていくつかの定書が出され、有力商人にはその屋敷地が与えられる等、博多の保護育成が計られていった。以上が博多という地域のざっくりとした来歴である。

 

 ここで指す博多の範囲というのは、現在でいう博多駅から、その北は海岸線まで、西は中洲の手前まで、といったごく狭い範囲だ。聖福寺といった大きな寺院が博多の町の東端に配置されており、寺院勢力が強かった中世の町の特徴を現在でも感じることができる。近世以前は、この狭い博多の範囲だけが町として栄えており、それ以外の周辺部はただの農村であった。江戸時代初期の国絵図には、中洲以西の、現在の天神や福岡城址あたりは、開発が何もなされていない荒野である様子が描かれている。この荒野が、のちに黒田長政によって城下町として開発され、福岡城が築かれる「福岡」の地域となるのである。

 個人的な熱いポイントとしては、福岡というのは”長政様が荒野だった地域を、街路区画から何まで一から作り上げた町“であるということである。長谷部からすれば、大好きだった長政様が作った町なのである。大好きになるしかないじゃん。絶対大好きだと思う。

 ちなみにこれはおまけの話なのだが、福岡という名前の由来は、黒田家の出身地、備前国の地名からとっている。一遍上人絵伝の福岡の市の場面は、よく取り上げられるために目にしたことがある人も多いのではないだろうか。ちなみに、この福岡の市があるところは、岡山県長船町だ。審神者心をくすぐられる地名である。

 

 以上、福岡市の歴史的背景について軽くまとめてみた。

「博多」は、博多駅を南端として、東は聖福寺のラインまで、西は中洲の手前、北は海岸線までというエリアの寺院と商人の町

「福岡」は、天神駅以西、ちょうど福岡市博物館最寄り駅の西新あたりまでの城下町エリアの武士の町、なのだ。

 

 

 

 

三、 変わるもの ――二振りによる福岡への目線

 

 「博多」と「福岡」。

この地名の違いを踏まえて、博多湾回想の博多くんのセリフ

「博多の海は変わらんけんねぇ」

 を考えてみたい。もしこの「博多」が、先ほど筆者が指摘した地域を指していると考えても、博多の地域も埋め立て地は結構あり、海岸は変わっている。そこで私は、ここで博多くんは、「博多の海」という表現によって「博多湾」全体として指しているのだと捉えたいと思う。

 海岸線に目を向けるのではなく、博多という土地から望む海の眺望。ぜひ、手元のスマートフォンやパソコンで「博多の海」と画像検索をしていただきたい。海の中道砂州地形から志賀島、そして能古島を臨む美しい風景がでてくることと思う。この風景は、中世・近世から現代まで、大きくは変化していないだろう。博多くんは、博多湾への出陣で、そんな変わらない風景を見たのではないだろうか。

 

 では、その博多くんが変わると表現している、「時代」「人の暮らし」とは何を指しているのだろう。

 

 まず、「時代の変化」はイメージしやすい。単純に考えれば時の流れである。そして、人の暮らし。それは、時代に合わせて人間の技術は進歩し、どんどんと世界は便利になっていく。それこそ埋め立て地を広げることにより土地を増やすことが可能であるし、人々の移動手段は歩きではなく電車や車になる。どんどんと高層の建物が増えていく。博多くんと日本号は、こういった時代の変化がどんなに大きくとも、その基盤にある地形や海は変わることのない。このような対比をおこなっていることが見えてくる。

 埋め立て地の増加による海岸線の変化も、二振りからすればおそらく「人の暮らし」のカテゴリー内で起きた変化であるのだ。

 

f:id:ms-utaware:20200614164118p:plain

地理院地図より(筆者書き込み有)

https://maps.gsi.go.jp/#14/33.585773/130.380335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

 

 上図は、国土地理院のサイトで閲覧できるシームレス空中写真に、元禄期の福岡城下町絵図(文末の参考リンク先を参照)から読み取ることのできる街路と海岸線を復元したものである。青が海岸線、黄色が街路復元である。

 この作業を行う過程で、天神から赤坂エリアにかけては、当時の街路がそのまま残っている部分が多いように感じた。天神西鉄グランドホテル前にある大きなクランクがある交差点は、城下町の典型的な町割りがそのまま残っている例だ。

https://www.google.co.jp/maps/@33.5904287,130.3955226,18.75z?hl=ja

 このような個所は他にも何か所かみることができる。福岡という町を、筆者は大きく変わったとばかりに評価している点が多かったかと思うが、こうして昔と変わらない場所もしっかり存在する街なのである。

 以上、二項にわたって、博多くんと日本号が表現した「変わらないもの」「変わるもの」について考察をおこなった。二振りが福岡という土地全体にどのような印象を持っているのかを少しでも可視化できたのでは、と思う。これらから、この回想の本題「このふたりは一体何を話しているのか」を考察したい。

 

 今まで挙げてきた具体例から、私が立てた仮説は、福岡を概念的世界具体的世界という二つの視点から捉えているのではないかというものだ。

 まず、変わらないものとしてあげられた海や地形。そして、この二つのほかに変わらずに残っている昔の時代の名残。長政様が作り、その後繁栄し続けた福岡の街を概念的にとらえると、その繁栄は、たとえ時代が変わり、人々の生活が変化したとしても、その本質としては変わらないものなのである。

 そして、それは日本号の来歴が証明しているのではないかと私は考えたのだ。

 日本号は、明治時代になり、財政難から売りに出され、黒田家の元を離れることとなり、さまざまな人の手から手へとうつっていった。そんななか、

日本号は福岡にあるべき。黒田にあるべき」

 という人の思いの力によって、再び黒田家の元に戻ってきた槍なのだ。日本号という槍はまさに、時代の変化に振り回された歴史を持っているのである

 

 そんな日本号が回想で、

「変わらないのは地形くらいだ」(他のものはどんどん変わっていく)

なんて、少々皮肉めいた言い回しをしているのは、こういった背景があるからなのかもしれない。時代の波を直に感じていた日本号だからこそ、変わっていく物事を強く感じがちなのだと思う。

 そして博多くんは、そんな日本号に対して

「人の暮らしは変わっていく」

 と同調する。

 

 ここでわたしが着目したのは「人の暮らし」だ。「人」でも、「暮らし」でもない。「人の暮らし」という表現をあえて博多くんが選んだのはなぜなのだろうか。

 この言葉の裏で、暗に「人は変わらないよ」という思いがこめられているのではないかと思うのである。

 日本号が振り回されたのはあくまでも時代の流れ。

 武士が落ちぶれ、お金がなくなり、生活が厳しくなり家宝を売って家計の足しにする。それこそ、どうしようもない時代の流れで起こってしまったことだ。ここでもし、人の心まで変わってしまっていたら。日本号を大事に思う黒田武士たちの心までもが消えてしまっていたら、今、日本号がどこに所蔵されているのか、はたまた現存できているのかすらも危ういではないのだろうか。人の思いが偶然にも重なり合い、こうして奇跡的に、福岡という土地に日本号はとどまることができている。

 「土地と人が紡いでくれた縁」のようなものが、この回想の裏に隠された思いであったら素敵じゃないかと、筆者はロマンを抱いてしまうのだ。

 きっと博多くんのこのセリフは、時代の流れを乗り越えて今も福岡の地で大事にされている日本号を思っての発言なのではないかと、筆者はそう思う。

 (やっぱり日本号よりも生きている年数的には断然年上ですからね……)

 

 

 

三、結びにかえて

 

 以上が、私が博多湾回想で日々考察のろくろをまわしている内容の一部だ。黒田にかかわる回想といえば、やはり日本号へし切長谷部の黒田家の話が最高傑作であり、私自身もよくろくろを泣きながらまわしている題材だ。私がなぜここまでこの回想たちに思いを入れるのか、その理由を考えてみたところ、どちらの回想も初見では「何の話してるの?」と、全く話の内容がつかめないような点があるところが共通していると思っている。身内にしかわからない内容でしか会話しない黒田。かわいい。尊い。好きです。

 今後も福岡の街の変遷、城下町建設以前の福岡の景観。日本号へし切長谷部が十七世紀からずっと暮らして共に見てきた風景を、これからも私は考え続け、可能な限り私もその景色を眺めていきたい。

 

 この文章の中には、妄想、私の願望が多いに含まれている。また、歴史は諸説あるものであり、私が調べてここに記載した内容が必ずしも正しいとは限らないことをお断りする。

 たった三行の回想にここまで変態的に愛を注いでいる人がここにいること、そして、博多湾回想の魅力がひとりでも多くの人に伝わって、いろんなひとの博多湾回想の解釈を拝聴できることを切に願いたい。

 

 

【参考文献】

・『物語福岡藩史』安川巌 文献出版 昭和六十年

・『福岡城 築城から現代まで』福岡市史編集委員会 福岡市 2013年

・『自然と遺跡からみた福岡の歴史』福岡市史編集委員会 福岡市 2013年

※今回はこの三冊を主に閲覧しました

 

【ウェブサイト】

国土地理院地理院地図https://maps.gsi.go.jp/#14/33.585773/130.380335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

  使用した空中写真はすべてこちらからお借りしました。

  地理院地図で気軽に見られますので興味がある方は是非。

・福岡市立博物館アーカイブhttp://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/

  No.209 絵図に見る城下町福岡

  No.406 福岡城下の道

・福岡県立図書館デジタルライブラリ

   「福岡県の近世絵図」

    リンク先の元禄絵図を参照しました。

http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kochizu/top.html

 

※はてぶろのコメント機能のしくみにいまいちなれておらず、コメントをいただけても返信が遅れる場合があります。ご了承ください。